「障害者だからって、そんなに気を使わなくていい|視覚障害者の僕が思う本当の配慮」も強いです。

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20年ほど前と比べると、障害者に対する世間の意識はかなり変わってきたように感じます。

もちろん、今でも偏見や理解不足がなくなったわけではありません。

それでも、障害について知ろうとする人が増えたり、困っている人に声をかけたり、

「障害のある人も暮らしやすい社会にしよう」

という考え方は、以前より広がっていると思います。

これは、とても良い変化だと思っています。

ただ、その一方で最近、少しだけ違和感を感じることがあります。

それは、

「障害者に対して、必要以上に気を使う社会になっていないだろうか?」

ということです。

僕は、障害の有無に関係なく、誰もが一人の人間として尊重されるべきだと思っています。

その上で、できないことや苦手なことがあれば、お互いに補い合えばいい。

僕が理想としているのは、そんな社会です。

今回は、視覚障害のある僕自身が感じている「配慮」について、少し踏み込んで書いてみようと思います。


視覚障害者として生きていて思うこと

「目が見えにくいと大変でしょう?」

そう言われることはよくあります。

確かに大変なことはあります。

僕の場合、目が見えにくいので、一人では難しいこともあります。

知らない場所を歩いたり、見えないものを確認したり、旅行先で目的地を探したり。

そういう場面では、誰かに助けてもらうこともあります。

でも、それ以外は案外普通です。

ご飯も食べるし、仕事もする。

遊びにも行くし、お酒も飲む。

ダーツもするし、旅行にも行きます。

腹が立つこともあれば、くだらないことで笑うこともあります。

「視覚障害者」という部分を除けば、僕も普通に生活している一人の人間です。

だから、必要なところでは配慮してもらえるとありがたい。

でも、それ以上に特別扱いしてもらわなくても、僕自身は大丈夫です。

もちろん、優しくしてもらって嫌な気持ちになるわけではありません(笑)。

ただ、

「障害者だから、とにかく気を使わないと」

となってしまうと、少し違う気がするんです。

配慮しすぎることで、逆に距離ができることもある

僕が「過剰な配慮」について気になる理由があります。

それは、

「何をしたら失礼になるんだろう?」と考えすぎることで、逆に声をかけづらくなる可能性があるからです。

これは障害だけの話ではないと思います。

ここ数年、「ハラスメント」という言葉を聞く機会も増えました。

もちろん、ハラスメントそのものを肯定するつもりはありません。

実際に傷ついた人がいるからこそ、社会全体で考えていかなければならない問題だと思います。

ただ、

「これは言ったらダメかな?」

「誘ったら迷惑かな?」

「手伝ったら失礼かな?」

と考えすぎた結果、人と人との距離まで遠くなってしまったら、それも少し寂しいなと思います。

障害についても同じです。

「障害者にどう接すればいいのか分からないから、何もしないでおこう」

となってしまうより、

「困ってますか?」

くらいの気軽な一言がある社会のほうが、僕は嬉しいです。

必要なければ、

「大丈夫です、ありがとうございます!」

と言えばいいだけですから。



親切に助けてもらって、逆に遠回りしたこともある

以前、僕が一人で目的地に向かって歩いていたときのことです。

親切な方が、

「どこまで行くんですか?」

と声をかけてくれて、一緒に歩いてくれたことがありました。

声をかけてもらえたこと自体は、本当にありがたいことです。

ところが、その方も道をよく分かっていなかったようで、

気づけば目的地とは違う方向へ進み、かなり遠回りしていました(笑)。

もちろん、その人に悪気はありません。

僕を助けようとしてくれた純粋な親切です。

でも今振り返ると、僕も最初に、

「ありがとうございます。でも、ここは一人で行けます!」

と伝えておけばよかったと思います。

そうすれば、その人もわざわざ時間を使わなくて済んだし、僕も遠回りせずに済みました。

結果的には、二人とも余計に時間を使ってしまったわけです(笑)。


この経験からも、


助けてくれる人の善意だけに任せるのではなく、
「ここは大丈夫」
「ここは手伝ってほしい」
と障害者側から伝えることも大切なんだ

と思うようになりました。

何でも手伝ってもらうことが「優しい社会」なのではなく、

必要なときには助けてもらう。

必要のないときには、

「ありがとうございます。でも大丈夫です」

と伝える。

そのくらいの関係のほうが、お互いに気を使いすぎなくて済むんじゃないでしょうか。

「障害者だから助けてもらって当然」ではないと思う

もう一つ、僕が大切だと思っていることがあります。

それは、障害者側の姿勢です。

僕自身、たくさんの人に助けてもらって生活しています。

もし、

「今日から誰の手も借りずに、全部一人で生活してください」

と言われたら、正直かなり困ります。

特に知らない場所や旅行先などでは、人の助けが必要になることがあります。

だからこそ思うんです。


助けてもらうことと、
助けてもらって当然だと思うことは違う。

以前、友人から聞いた話や、さまざまな意見を見ている中で、

「障害があるんだから手伝ってもらって当然」

「何も言わなくても周りが気づくべき」

「手伝ってもらえなかったから腹が立った」

という考え方に触れることがありました。

もちろん、その人にしか分からない事情もあります。

一部分だけを見て、その人を否定することはできません。

それでも僕は、


障害があるかどうかに関係なく、人間としての謙虚さや感謝は必要なんじゃないかな

と思います。

困っているなら、

「すみません、手伝ってもらえますか?」

と伝える。

手伝ってもらったら、

「ありがとうございます」

と言う。

すごく単純なことです。

でも僕は、それでいいと思っています。

「全員を同じにすること」が平等ではない

「平等な社会」

「バリアのない社会」

こういった言葉をよく聞きます。

もちろん、目指す方向としては素晴らしいと思います。

ただ、すべての人を完全に同じ状態にすることは難しいとも思っています。

人間は一人ひとり違います。

障害がある人もいれば、ない人もいる。

生まれつき障害がある人もいれば、事故や病気によって途中から障害を持つ人もいます。

そして同じ「視覚障害」でも、見え方やできることは人によって全然違います。

だから僕は、


平等=全員をまったく同じように扱うこと

ではないと思っています。


例えば、僕が見えないものを誰かに読んでもらう。

知らない場所で道を教えてもらう。

それは僕にとって必要なサポートです。

でも、そのために周りの人が必要以上に遠慮したり、我慢したりし続ける社会になってしまったら、それも少し違う気がします。


できることは自分でする。

できないところは助けてもらう。

僕にとっては、そのくらいの関係がちょうどいいです。

将来、僕の考え方も変わるかもしれない

もちろん、これは今の僕だから言えることなのかもしれません。

僕は現在、視覚障害とうまく付き合いながら生活できているほうだと思っています。

もし今後、さらに視力が低下すれば、できなくなることが増えるかもしれません。

そのとき、今とは考え方が変わる可能性だってあります。

だから、


「障害者はこうあるべきだ」

と言うつもりはありません。

障害の種類も程度も生活環境も、人それぞれだからです。

身体障害もあれば、精神障害、発達障害もあります。

身体障害の中でも、視覚障害、聴覚障害、肢体不自由など、状況は大きく違います。

さらに同じ障害でも、一人ひとり困っていることは違います。


この記事はあくまで、視覚障害のある一人の人間としての僕の意見です。


妻の周囲にいる障害のある人たちを見て感じたこと

僕はまだアメリカに行ったことがありませんし、アメリカの障害者事情を自分で調査したわけでもありません。

なので、

「アメリカの障害者はこうだ」

と語ることはできません。

ただ、アメリカ人の妻を通して、妻の友人や家族など、障害のある人たちの話を聞く機会があります。

そんな身近な人たちの話を聞いていて僕が感じるのは、


「自分に必要なことを、自分から伝える力が強いな」

ということです。

困ったら「困った」と言う。

必要なら「これを手伝ってほしい」と伝える。

もちろん、僕が知っている限られた人たちの話なので、これをアメリカ全体に当てはめることはできません。

それでも、この姿勢については僕自身も見習いたいと思っています。

一方、日本には日本の良さがあります。

僕が白杖を持って歩いていると、こちらから何も言わなくても、


「大丈夫ですか?」

と声をかけてくれる人がいます。

僕は何度も、そういう人たちに助けてもらってきました。

これは本当にありがたいことです。

だからこそ、その優しさを、


「やってもらって当然」

にはしたくないと思っています。

障害者側も「待っているだけ」ではいけないと思う

社会に対して、

「もっとバリアをなくしてほしい」

「もっと理解してほしい」

「もっと助けてほしい」

と声を上げることは大切です。

実際、それによって改善できることはたくさんあります。

でも同時に、


障害者側も、自分に何ができて、何が難しくて、どんな助けが必要なのかを伝えていく必要がある

と僕は思っています。

先ほどの僕が遠回りしてしまった話もそうです。

相手は親切で声をかけてくれました。

でも僕が、

「ここは一人で大丈夫です」

と伝えることもできました。

反対に、本当に困っているなら、

「〇〇まで一緒に行ってもらえませんか?」

とお願いすればいい。

社会だけに変わってもらうのではなく、当事者側からも伝える。


「助ける側」と「助けられる側」のどちらか一方だけが頑張るのではなく、お互いにコミュニケーションを取る。

そのほうが、自然な関係になるんじゃないでしょうか。



僕が望むのは「気を使う社会」ではなく「助け合える社会」

僕は、

「障害者にもっと我慢してほしい」

と言いたいわけではありません。

必要な配慮までなくしてほしいとも思っていません。

僕自身、一人ではできないことがたくさんあります。

これからも、たくさんの人に助けてもらうと思います。

その一方で、自分にできることなら、僕も誰かを助ける側になりたい。


できることは自分でする。

できないことは助けてもらう。

そして、助けてもらったことを当たり前にしない。

障害者だから優しくする。

障害者だから何でも我慢してもらう。

そういう関係ではなく、


障害の有無に関係なく、
一人の人間としてお互いを尊重する。

そして、足りないところがあれば補い合う。

僕が思う「平等な社会」は、全員を同じにする社会ではありません。

違いがあることを前提に、


それでもお互いを一人の人間として尊重し、
必要なときには自然に助け合える社会。

僕は、そんな社会になってほしいと思っています。

この記事で伝えたかったこと

障害者への配慮やサポートは、僕自身も何度も助けられてきた大切なものです。

だからこそ、それを「してもらって当然」にはしたくありません。

助ける側も、助けられる側も、無理をしすぎない。

困ったときには「助けてください」と言えて、
必要なければ「大丈夫です、ありがとう」と言える。


そんな自然な関係が増えていけばいいなと思います。


ここまで読んでいただき、ありがとうございました。

障害の有無や立場によって、このテーマについての考え方は違うと思います。

この記事も「これが正解」という話ではなく、あくまで視覚障害のある僕自身が生活する中で感じていることとして読んでもらえたら嬉しいです。

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